2013-11-15 第185回国会 衆議院 法務委員会 第7号
天動説に異を唱えたガリレオ・ガリレイのそれでも地球は回っているという言葉は、神への挑戦であり、宗教裁判において異端審問官からはりつけの刑に処せられるという危険を冒したものなのであります。 ルネサンス運動は、まさに神が支配する世界から人間中心の世界へと変換する命がけの運動でもあったわけであります。
天動説に異を唱えたガリレオ・ガリレイのそれでも地球は回っているという言葉は、神への挑戦であり、宗教裁判において異端審問官からはりつけの刑に処せられるという危険を冒したものなのであります。 ルネサンス運動は、まさに神が支配する世界から人間中心の世界へと変換する命がけの運動でもあったわけであります。
○住田参考人 先ほど、だれかが引用されましたけれども、ガリレオ・ガリレイが引っ張り出されたときの宗教裁判の話を出されたんですけれども、やはり地球は動いていると言わざるを得ないんですね。 ということは、つまり、この狭い日本の中で一億何千万かの人間がある程度の生活水準を維持していくためには、どうしてもエネルギーが要る。原子力にかわるものがあるんでしょうか。
私は、エネルギー政策上はやはり必要なものは必要だと思うんですが、そのことに関して三人の皆様方が、ガリレオ・ガリレイのせりふじゃないけれども、やはりこれはエネルギー源として、あるいは人類が活用するエネルギーとして原子力発電は必要であるという考えは今も変わりがないとおっしゃるのか、もうこういうことが起こったら、どんどん減らしていけ、一部議員や一部政党にはそういう人が多いわけでございますが、そちらの方にくみして
かつて、ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えたとき、その当時の人は彼を気違いだというふうにしたことがございます。私も、この教授の御意見は、何となく今の社会では余り受け入れられない御意見ではないかと思いますけれども、先ほど大臣がおっしゃったように、人類の英知、生き方の改革というものを我々国民もしっかりと見据えて、これから日本の国のために頑張っていかなければいけないということに共感を抱きました。
ガリレオ・ガリレイというのは中世で有名な名前でございますが、なぜ裁判にかけられたのかということであります。これは宗教裁判ではありましたが、当時は、内心の考えが表明されただけでその内心の考え自体が処罰の対象となり得た、そういう時代であったわけでございます。宗教裁判であれ、刑事裁判であれ、同様であったのでございます。
さきの衆議院解散直後の記者会見の中で、総理は自らを、天動説を押し付けようとする法王庁の権威に屈せず、科学的に正しい地動説を抱き続けたガリレオ・ガリレイに例え、自賛されました。しかし、私の意見では総理はガリレオには似ても似つきません。ガリレオが説いたのは地動説、すなわち動いているのは地球、そしてその上に立っている自分なのです。
○内閣総理大臣(小泉純一郎君) どういう意味でといいますか、このガリレオ・ガリレイというのはもう学生時代からよく学校で先生から聞いた話であります。四百年ぐらい前ですかね、天動説の中でガリレオは地動説を唱えて有罪判決を受けました。しかし、その有罪判決を受けた後も、それでも地球は動くと唱えたそうであります。これ、四百年前ですから、これは事実かどうか、これは分かりません。
総理は解散後の記者会見でガリレオ・ガリレイを例に例えましたが、あれはどういう意味でガリレオさんを例に出したのか、お聞きしたいと思います。
これは十七世紀の話でありますが、ガリレオ・ガリレイが御承知のように地動説を支持いたしました。そうして地動説放棄を命ぜられたのが一六一六年ということでございます。しかし彼は放棄しなかったわけです。そして一六三三年かなローマに幽閉されて、やがて出された。それは裁判によってやられたんですね。宗教裁判だったようであります。そして幽閉された後出されたときに、それでも地球は動いていると言った。
○秋葉委員 お答えを伺っているうちに、だんだん複雑になってわからなくなっていくのですが、私はあたかも、かつて天動説から地動説に移ったときのガリレイのような気持ちがしておるのです。
ところが外国ではどういうふうに教えているか、教科書どうなっているか、日本の教科書と大体同じようなものであろうと思いますが、彼らはガリレオ・ガリレイが身近にいるわけです。あるいはニュートンが自分の隣にいるような感じなんです。隣の教室でもノーベル賞をもらっている。その人たちのおかげで我我は今幸せになるんだと。
ガリレオ・ガリレイについてローマ法王が謝罪をするという話にもなったわけですから、私は、そういったことはやはり謙虚に受けとめるべきが科学者の姿勢ではなかろうか、こう思っているところであります。
エジプトでもすぐれた学究である国会議長を中心に三回ほどの会合もしましたけれども、やはり西欧のルネッサンスにおけるガリレイやコペルニクスのあの世界観にしても、アレクサンドリアにおける学者の考え方の発展の上に神聖ローマ帝国が押しつけた間違った世界観というものを、地球観というものを変えさせたのであって、このグローバルな時代に私はいろいろな宗教だ、イデオロギーだというけれども、真実は一つであって、権威主義と
ガリレオ・ガリレイじゃないけれども、それでも地球は回るのだ、こういうことですね。変化を予測する人をいかに排撃してみたところで、変化は事実が変化をしているんですからね。私は、そういうことを考えると、そういう点についてやはりどうしても考えなければならぬというふうに思うのです。
同時に忘れてならないのは、コペルニクス、ガリレオ・ガリレイ以来、天文学、物理学を発展せしめた先人の努力と数々の業績であります。 ところで、近代天文学の基礎となった地動説は、当時世界の支配者であったローマ法王の権威に抗して、身を挺して真理探求に打ち込んだ科学者によって打ち立てられたのであります。
たとえばガリレイの話のように、たとえば法王から地球が回わるということを言うなと言われても、言わなければならないということもあろうかと思います。したがって、学界において、最大公約数の結論が出ている場合には、できるだけ教科書は、そういう最大公約数、普通私たちは通説と申しておりますが、通説を書くのが常識であろうと思います。
ヂオルダノ・ブルノがコペルニクス理論の展開を守つて死刑に処せられ、ガリレイが七十歳の高齢を以て秘密裁判に苦められ、近く我が日本においても美濃部博士や天野博士が不当の迫害を受けられたような、ああした種類の悲劇、世人の心を痛ましめたこれらの悲惨事の幾分かは、公開審理の保障があつたならば防ぐことのできたものなのであります。